菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(西馬音内)

 天明4年、田茂沢(たむろさわ)に入った菅江真澄は刑罰の柱を見た。この盗人を懲らしめる刑罰の柱が印象にあるのか、次に西馬音内で菅江真澄が目にして記したのは鮭の頭を盗んだ人であった。



 西馬音内ではまっさきに市をみた。菅江真澄が見たものはこの市で盗人と女主人とのやり取りであった。交わされる言葉に菅江真澄は大いに興味をしめて諍い(いさかい)言葉には古い言葉を聞きとることができて趣があると感じたのである。だが現在はその言葉をほとんど聞くことはない。


 西馬音内は鎌倉時代の地頭小野寺氏が西馬音内を支配して以来次第に発展した町だといわれる。町の中は正応3年(1190)に沙門源親が勧請したという御嶽神社や西馬音内氏の菩提寺であった西蔵寺がある。西馬音内川にかけられる2万石橋は本荘亀田両藩主が参勤交代で渡ったことから名付けられたといいこの道筋は本荘街道という。



冬に訪れた菅江真澄は見ることができなかったが、西馬音内盆踊りは有名である。その始まりは正応年間(1288~1293)ともいわれ、豊年踊り、または旧盆に行われた亡者(もうじゃ)祭りに由来するという。端縫い(はぬい)の着物にひこさ頭巾姿がかがり火に映え、緩やかで流れるよう舞われる優雅な盆踊りである。



 菅江真澄は西馬音内で滞在した家はわかっていない。日記から板葺きの屋根が朽ちて雨漏りするほどの家であったらしいと記されている。



 日記の記述から菅江真澄は民家での生活での観察や西馬音内地方の方言などを通して、独特な文化を感じとろうといたと思われる。


参考文献:秋田のかりねを行く
写真提供:つきのわさん