菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(毛布の渡)

天明5年8月26日、松山村を通り、紀の国坂を越えた菅江真澄はやがて神田村に着いた。神田村は鹿角街道にそう駅場の一つである。米代川の川端にある神田村はまた川向かい室田村松の木に通じる舟渡しの場でもあった。


「神田の舟渡跡(菅江真澄の道)の標柱」


けふのせば布には


新田(神田)という村に到着した。川が大水となって水嵩(みずかさ)増し、渡し舟がでないというのでやむなくここに一泊した。夜更けに風が吹き込んでとのかたかた鳴るのに目を覚まし


荻の葉の音せぬ夜半も身にぞしむたびねの床に通ふ秋かぜ

27日大水が引いたので渡し舟が出た。この川をこそ毛布の渡というのであろう。


夢にさへふる里人にあひがたきけふの渡に袖ぬれにけり


「現在の神田の舟渡し場」


ここへきて真澄はつよい望郷の念にかられていたとみえ、舟待ちの宿でよんだこの歌には三河国の故郷に思いをはせる切々の情がこめられている。


真澄が毛布の渡と表現したのは米代川のことであり、神田村の舟渡し場であった。


「現在の神田の舟渡し場」


毛布の渡は毛布の細道などとともに 錦木塚の縁起によって命名されていることが知られている。なお神田の舟渡し場は明治廿一年の神田橋架橋までつづいていた。



参考文献:菅江真澄と鹿角