菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(錦木塚)

花輪線十和田南駅近くに稲荷神社がある。神社周辺が公園となっており、その中に錦木塚がある。塚の脇には真澄が錦に描いた杉の大木がみられる。


「稲荷神社」


天明5年8月廿七日、菅江真澄は神田村から毛布の渡によって向こう岸の室田村松の木に着いた。花輪の村の反対方向へ来満道を1000メートル入ると錦木塚であった。


「錦木塚の標柱」


けふのせばぬのには以下の記録が残っている。


古川という村につき、錦木塚を訪ねると、稲刈りの女が鎌で指しながら教えてくれた。


以下省略


「錦木塚の標柱」


また広河原という里に仲人木(なかうどき)を商う若者がいた。それは楓の木、まゆみの木、酸(す)の木、かばざくら、苦木の5つの枝を三尺余りに切って一束に結い、色よく紅葉するところから錦木とも呼んでいた。この仲人木を自分の献想(けそう)する女の家の門にたてる。女が見て自分の夫にすべき男の立てたものだけ内に取り入れる習わしであった。


「菅江真澄の標柱」


広河原の若者は毎晩錦木の高々としたのを、毛布あきなう女の門に立てたので、女は嬉しく思い内へ取り入れようとした。しかし、翁が激しく反対し、夜は寝ずの番をし、あかしぶの松明の火をともして家の外を見廻る。若者はくる夜もくる夜も女に逢えず、涙にくれながら帰った道を奥の細道、けふの細道といい、涙の顔を洗った川をなみだ川といった。



「稲荷神社」


“しら露のおくの細みち物うしとはらひし草や今もむすばじ”


「錦木についての説明板」


思いつめた若者はとうとう深い林に入ってくびれ死んだとも、なみだ川に身をなげて死んだともいう。女も一途にこの男だけを恋いこがれていたので、痩せ衰えて湯水ものどを通らずまもなく死んでしまった。


「錦木塚伝説の説明板」


この男女の比翼塚の前にたたずみ、亡霊に出向けようと5種の木の枝のすこし紅葉したのを折って苔の上にさし、それに紙を結んで


「錦木塚」


錦木の 朽ちしむかしを おもひ出て 俤にたつ  はじのもみじ葉


という歌を書きつけた。


「錦木塚伝説の標柱」


錦木塚伝説に登場する若者が帰り道、女ぬ逢えぬ悔し涙を洗ったとされる川を涙川という。




参考文献:菅江真澄と鹿角
    菅江真澄読本5