天明5年(1785)4月29日で「小野のふるさと」は終わっている。次の日記は8月3日に津軽との境界、本蓮寺坂を下るところから始まる「外が浜風」である。5月から7月までの3か月、菅江真澄は何をしていたのだろうか。
粉本稿に記録によると菅江真澄が歩いたコースが推定ではあるがわかっている。
湯沢➡横手➡角館➡大覚野峠➡阿仁合➡七日市➡萩形➡久保田➡追分➡男鹿➡岩舘
天明5年夏に菅江真澄は仙北郡から大覚の峠を越え、阿仁銅山を訪れた。「粉本稿」に図絵を描き、それには銅山を詳しく解説した説明文がある。
「阿仁河川公園にある野積みされたカラミ」
出羽の国の阿仁山というところで銅(あかがね)を掘っている。鉱石を掘る穴をすべてしきといい、掘る人を大工という。鉱石を入れる器を背負うことをえぶといい石を砕いて銅をとることをはくをからむと呼ぶ。以下省略
阿仁銅山を見学した菅江真澄は七日市を経由し萩形(上小阿仁村)、久保田へ移動した。「月のおろちね」という日記に萩形のことは「秋田のかりね」に書いたと記録が残っている。
五城目町馬場目には菅江真澄の歩いた道の標柱が設置されている。またその標柱には「秋田のかりね続」と表記されている。
久保田(秋田市)には「ひなの一ふし」の中に「秋田のかりね」にも詳しいという箇所がある。
追分(秋田市・潟上市)には「男鹿の秋風」という日記に二十年前にこの地を通ったいう記事がある。
「追分三叉路(左が男鹿方面・右が能代方面)」
男鹿半島には「粉本稿」の中に「蘇武塚」「真山・本山・大浅橋」の図絵があった。
「真山神社」
現存の「秋田のかりね」は天明4年の大晦日で終わっている。これに続く「小野のふるさと」は天明8年頃に清書したといわれている。しかもこの日記の表題は菅江真澄の筆ではないといわれていて「秋田のかりね」第2部と呼べるものであった可能性がある。それにより空白の3か月を記したのが「秋田のかりね」第3部であったと推測ができる。少なくても越後から庄内に入り、岩舘で津軽に入るまでのすべての日記が草稿の段階で「秋田のかりね」であったと考えられる。
阿仁銅山での菅江真澄の鉱山見学に便宜をはかった藩役人のことや、菅江真澄が久保田城下で会った人々の名前が記されていたことが推定される。そのためこの3か月の日記は廃棄された可能性がある。
参考文献:森吉山麗 菅江真澄の旅
参考文献:菅江真澄の秋田の旅