菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(土深井②)

文政4年(1821)3月5日、菅江真澄は3度目の鹿角に入った。


秋田領十二所をたって沢尻村から土深井へは入った時、「上津野の花(筆のしらがみ)」は次のように述べている。


「土深井駅前のバス停」


右手の山の上に稲荷のお社があって、鳥居も木々の間からみえる。境川といわれる小さな流れを渡ると、陸奥国鹿角郡土深井という村でそこに番所がある。


                  ~一部省略~


鳥居の見えたのはどんな神様かと人に尋ねても、知らないとの答に
「よしさはれ みぬさとらまし 人ことにこやとふかひも なにのみやしろ」と詠んだ


「土深井にある菅江真澄の標柱と南部・秋田藩境の標柱」


山の上には実は土深井の稲荷社と秋田領沢尻村の稲荷が間に藩境線の浅い小沢を挟んで、ほとんど隣あう形で建っていた。それは江戸初期、南部秋田双方が互いに境界を押し合い、紛争が絶えないところ村人たちが相談し、境の番を神様にお願いすれば無法な争いがなくなるであろうと、彼我の稲荷二社を並べ建てたという。


「土深井にある菅江真澄の標柱と南部・秋田藩境の標柱」


 菅江真澄がみた社には藩境に住む人々の切ない思いが込められていたと考えられる。


 また、この頃は秋田を拠点に旅をしていたが、なぜ南部藩に入り旅をしたのかはわからない。



参考文献:菅江真澄の鹿角の旅