菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(鉄砲村)

 8月廿七日、菅江真澄は古川の黒沢家を訪ねた後、松の木の金勢大明神わきから鹿角街道に出て、鶴田・鉄砲を経由して花輪へ向かった。「けふのせばぬの」には次のように記している。


「菅江真澄の標柱」


おもむろに古川村を出て、松の木村というところへ来ると、石づくりのおばしかた(陽形)を並べたお堂がある。このようなお堂は信濃、越後、出羽とりわけ陸奥にはずいぶん多い。
 冠田村をへて、涙川を渡った。「おほ空にわたる鵆のわれならばけふのわたりをいかになかまし」と詠んでいるのは、この流れであるとも、また古川と神田の間の舟渡しの場所をいうのだともいうが、誰にもはっきりしたことはわからない。
 鶴田の村を過ぎて、まもなくまた村の名を問うと、鉄砲というおおげさな答がかえってきたので、たわむれに歌をつくった。


羽よはきつる田のひなは心せよ鉄砲村の近くありつつ


「菅江真澄の標柱」


鉄砲村ははじめ鉄砲新田とよばれ、天明のころは3軒だけの家であった。かつて東寄りに流れていた米代川が西側へ移動したあとの旧河道には大小の沼が残った。そこを絶好の繁殖・越冬の地としてたくさんの水鳥が集まっていた。一方藩では、鷹狩の鷹の餌のため領内の村々に御鷹飼鳥銭を課したが、のち藩が直接餌となる小鳥を買い入れることになった。おそらくこの村には特別の鉄砲免許をうけ、御鷹飼鳥の狩猟を生業とする者が住んでいたのだろうか。


 鉄砲村跡には五輪塔や墓石群だけが残る。



参考文献:菅江真澄と鹿角

菅江真澄ゆかりの地(錦木塚)

花輪線十和田南駅近くに稲荷神社がある。神社周辺が公園となっており、その中に錦木塚がある。塚の脇には真澄が錦に描いた杉の大木がみられる。


「稲荷神社」


天明5年8月廿七日、菅江真澄は神田村から毛布の渡によって向こう岸の室田村松の木に着いた。花輪の村の反対方向へ来満道を1000メートル入ると錦木塚であった。


「錦木塚の標柱」


けふのせばぬのには以下の記録が残っている。


古川という村につき、錦木塚を訪ねると、稲刈りの女が鎌で指しながら教えてくれた。


以下省略


「錦木塚の標柱」


また広河原という里に仲人木(なかうどき)を商う若者がいた。それは楓の木、まゆみの木、酸(す)の木、かばざくら、苦木の5つの枝を三尺余りに切って一束に結い、色よく紅葉するところから錦木とも呼んでいた。この仲人木を自分の献想(けそう)する女の家の門にたてる。女が見て自分の夫にすべき男の立てたものだけ内に取り入れる習わしであった。


「菅江真澄の標柱」


広河原の若者は毎晩錦木の高々としたのを、毛布あきなう女の門に立てたので、女は嬉しく思い内へ取り入れようとした。しかし、翁が激しく反対し、夜は寝ずの番をし、あかしぶの松明の火をともして家の外を見廻る。若者はくる夜もくる夜も女に逢えず、涙にくれながら帰った道を奥の細道、けふの細道といい、涙の顔を洗った川をなみだ川といった。



「稲荷神社」


“しら露のおくの細みち物うしとはらひし草や今もむすばじ”


「錦木についての説明板」


思いつめた若者はとうとう深い林に入ってくびれ死んだとも、なみだ川に身をなげて死んだともいう。女も一途にこの男だけを恋いこがれていたので、痩せ衰えて湯水ものどを通らずまもなく死んでしまった。


「錦木塚伝説の説明板」


この男女の比翼塚の前にたたずみ、亡霊に出向けようと5種の木の枝のすこし紅葉したのを折って苔の上にさし、それに紙を結んで


「錦木塚」


錦木の 朽ちしむかしを おもひ出て 俤にたつ  はじのもみじ葉


という歌を書きつけた。


「錦木塚伝説の標柱」


錦木塚伝説に登場する若者が帰り道、女ぬ逢えぬ悔し涙を洗ったとされる川を涙川という。




参考文献:菅江真澄と鹿角
    菅江真澄読本5

菅江真澄ゆかりの地(毛布の渡)

天明5年8月26日、松山村を通り、紀の国坂を越えた菅江真澄はやがて神田村に着いた。神田村は鹿角街道にそう駅場の一つである。米代川の川端にある神田村はまた川向かい室田村松の木に通じる舟渡しの場でもあった。


「神田の舟渡跡(菅江真澄の道)の標柱」


けふのせば布には


新田(神田)という村に到着した。川が大水となって水嵩(みずかさ)増し、渡し舟がでないというのでやむなくここに一泊した。夜更けに風が吹き込んでとのかたかた鳴るのに目を覚まし


荻の葉の音せぬ夜半も身にぞしむたびねの床に通ふ秋かぜ

27日大水が引いたので渡し舟が出た。この川をこそ毛布の渡というのであろう。


夢にさへふる里人にあひがたきけふの渡に袖ぬれにけり


「現在の神田の舟渡し場」


ここへきて真澄はつよい望郷の念にかられていたとみえ、舟待ちの宿でよんだこの歌には三河国の故郷に思いをはせる切々の情がこめられている。


真澄が毛布の渡と表現したのは米代川のことであり、神田村の舟渡し場であった。


「現在の神田の舟渡し場」


毛布の渡は毛布の細道などとともに 錦木塚の縁起によって命名されていることが知られている。なお神田の舟渡し場は明治廿一年の神田橋架橋までつづいていた。



参考文献:菅江真澄と鹿角