天明4年、菅江真澄は象潟で島めぐりを終えた後、金浦町の飛集落を訪れ、飛の地名の由来とそこの塩竈神社に興味を覚えて由来を記した。 仁賀保町にある芹田に入ると白雪川を渡し舟でで越えた菅江真澄は日本海沿岸に伸びる北国街道さらに北上し由利地方を代表する二万石の城下町・本荘を目指した。 菅江真澄は由利... 続きをみる
2020年4月のブログ記事
-
-
蚶満寺(かんまん)は仁寿3年(西暦853年)に慈覚大師により、天台宗の寺院として開山されたと伝わる。のちに真言宗を経て、江戸時代に曹洞宗へ改宗し現在へ至る。 象潟は蚶(きさ)という貝が多い所から付いた地名で干(蚶)満寺もそれにちなむものと推測できる。 1689(元禄2)年に『奥の細道』途中... 続きをみる
-
象潟での二日目の旅は雨風が止まなかったものの、宿でじっとしてもいられず、磯部を歩き回った。三日目には中橋から船に乗り潟巡りに出かけた。 菅江真澄は船で島々の合間を縫って鳥海山を眺めていた。その時に詠んだ歌がある。 「大平からあおいだ鳥海山は駿河の田子の浦からみた富士山のようで見事であった」 ... 続きをみる
-
象潟は昔、東西1.5km南北5kmほどの入江で大小100以上の島々を浮かべ、水面には南にそびえる鳥海山が島の間を縫うようにその姿を映し出していた。松島と並ぶ景勝地として知られていた。 しかし、文化元年(1804年)の地震で潟底が2.4mほど隆起し、潟は一夜にして消滅した。現在は水田に代わり、水田... 続きをみる
-
にかほ市小砂川には菅江真澄が宿泊した「磯家」跡がある。 宿で夜更けに雷だと思った音が、「くだり穴」という岩の空洞に荒波が入る音であったと記録が残っている。 菅江真澄が泊まった家は今の大磯原のくだり穴の近くにあったようだ。 「くだり穴」を探したが残念ながら見つからなかった。どこにあるか地... 続きをみる
-
菅江真澄が三崎峠を越えて初めて秋田の地に足を踏み入れたのは、天明4年(1784)の9月25日であった。故郷の三河(愛知県)を出て2年目、31歳の時である。 三崎山は羽州浜街道の難所の一つとされたところで、大石を敷き詰めた旧道がうっそうとした林の中に今も残っている。 松尾芭蕉もこの旧街道を通ってい... 続きをみる
-
菅江真澄が本洗馬(塩尻市)を拠点としていた天明3年の日記は「伊那の中路」だが、更級にある姨捨山の月見に出かけた8日間の記録は「わがこころ」と知られている。 「姨捨駅から見る長野盆地」 姨捨は古くから月見の名所として知られた場所である。 長野県には標高1252mの冠着山(かむりきやま)あるが、別名で... 続きをみる
-
本洗馬歴史の里資料館は江戸時代の紀行家、菅江真澄や医学者で結核の治療や予防に貢献した熊谷台蔵博士などについての展示がある。 本洗馬歴史の里の説明板。本洗馬の歴史を振り返るうえで菅江真澄は欠かせない存在だと感じた。 入館後、職員の方が菅江真澄について詳しく説明してくれた。 菅江真澄(当時... 続きをみる
-
菅江真澄が北への旅に出て約1年間は長野県塩尻市にある洗馬を拠点としていた。 今回は塩尻市内にある長興寺を行ってみた。菅江真澄は長興寺の住職である洞月上人と交流していた。 門の横には柳田国男と折口信夫の歌碑がある。 歌碑の解説がその横の石に刻み込まれている。 柳田国男の短歌は昭和5年にこの寺で開... 続きをみる