菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(院内)

天明4年(1795年)4月14日、菅江真澄は柳田村を出発し、小野小町の旧跡と横堀を経由し院内に到着した。そして桂川で和歌を詠みそこで一泊した。



翌日には院内銀山を訪れ、町や鉱山を見学して2首の和歌を詠み、院内に下った。


和歌の名人といわれた院内城代大山氏の葬式を見てさらに和歌を詠み、その日に柳田村へと戻った。


銀山町で「あさつゆを はらえば袖に玉とちる 光ことなる白銀の山」


大山氏の葬式を見て「いや高きその名は四方の橘のちりし軒端を思いこそあれ」


 院内銀山は1606年(慶長11年)に村山宗兵衛らにより発見され、金及び銀を産出し、江戸時代を通じて日本最大の銀山であった。
久保田藩(秋田藩)によって管理され、久保田藩の財政を支える重要な鉱山であった。なぜ旅人である菅江真澄が院内銀山に立ち入ることができたのかはわからない。


「院内銀山 御幸坑」


 湯沢市院内は藩境の地として院内関所が置かれた。主として浪人者の取締りと院内銀山の警備が重要な役割であった。江戸時代後期には最大4千戸、1万5千人の人口を擁し栄え、久保田城の城下町を凌ぐほどの隆盛を築き上げた。


参考文献:秋田県の頑張る農山漁村集落応援
写真提供:つきのわさん