天明4年(1795年)4月14日、菅江真澄は柳田村を出発し、小野小町の旧跡と横堀を経由し院内に到着した。そして桂川で和歌を詠みそこで一泊した。 翌日には院内銀山を訪れ、町や鉱山を見学して2首の和歌を詠み、院内に下った。 和歌の名人といわれた院内城代大山氏の葬式を見てさらに和歌を詠み、その日に柳田村... 続きをみる
2021年12月のブログ記事
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天明5年1月10日、菅江真澄は湯沢市成沢から湯沢市岩崎へ移動した。 岩崎というところに行こうと、鳴澤という村の端に、雪を分けて流れる水があれば、 きのふけふ 山路は春に なる澤の 水こそみつれ 四方の長閑さ 「湯沢市成沢」 やがて岩崎に到って、石川氏家に泊る。今日は初庚申の日だといって、火焚き屋... 続きをみる
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天明4年1月4日、菅江真澄は湯沢市柳田から湯沢市町中へ移動し、そこで歌を詠んだ。 たのしさよ千代もかはらずくみかはす湯沢の里の盞 酒を飲まないならこの湯澤についての歌を詠みなさい。さもないとすぐ飲ませますよ。 現在、湯沢市役所のほぼ向いの力水公園には真澄のこの歌を刻んだ歌碑が建てられている。 湯沢... 続きをみる
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天明4年、菅江真澄が柳田から湯沢を訪れた際に、湯沢は昔、山畑かた湯が出たから名付けられた由来も書き留めている。今日の湯沢には基幹産業として農業、酒造業、曲げ木工業などがみられる。これらもまた長い歴史をえて現在に伝わるもので、菅江真澄が江戸時代に記録したのは大事な跡付けともされる。 菅江真澄は犬自... 続きをみる
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天明4年、田茂沢(たむろさわ)に入った菅江真澄は刑罰の柱を見た。この盗人を懲らしめる刑罰の柱が印象にあるのか、次に西馬音内で菅江真澄が目にして記したのは鮭の頭を盗んだ人であった。 西馬音内ではまっさきに市をみた。菅江真澄が見たものはこの市で盗人と女主人とのやり取りであった。交わされる言葉に菅江... 続きをみる
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天明4年10月、笹子川(じねごかわ)にかけられた橋を人の助けをかりながら、かろうじて渡った菅江真澄はここから山越えをして雄勝郡へ抜ける八木山越えの道を選んだ。 この山越えについて菅江真澄は 「木樵りにたまに出会うほかは通るものいない山道を雪に難渋しながら進んだ」 と記録した。 この山境には... 続きをみる
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天明4年10月6日に矢島を発った菅江真澄は矢島街道を南へ下り伏見に至る。 伏見では前日から雨で子吉川の水かさが増し、向こうの岸に渡れない。7日は舟は出ず、みぞれが雪に変わる天気となり8日は家の軒の高さまで積もった。9日の日記には屋根の上から落ちる雪がまるで地震のように振動することに驚いたと記した。... 続きをみる
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天明4年10月2日、菅江真澄は矢島の城下町に宿を取った。 矢島は平安時代のはじめに鳥海山の登山口として修験山伏がひらいたといわれ、菅江真澄が来たころは、矢島藩1万石の城下町として栄えていた。 菅江真澄は矢島で3泊しハタハタをはじめ様々な魚を売る市を見ていた。 ハタハタといえば、八峰町や男鹿市... 続きをみる
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天明4年10月、菅江真澄は小菅野から下って再び子吉川を渡り、吉沢に入った。 「吉沢歩道橋のたもとにある標柱」 菅江真澄は吉沢でも和歌を一首詠んでいる。 行かひはまさ木のかつらくりかへし引手あまたにわたす舟人(真澄31歳) 小板戸から川辺を通り、矢島へ向かう道は子吉川の流れの変化などにより変遷があ... 続きをみる