菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(紀の国坂)

天明5年、8月26日、菅江真澄は境目の土深井村を過ぎ、降りだしそうな空模様を気にしながら、松山村へ足を早めていた。


「紀の国坂の標柱」


松山村には境目番所が置かれ、駅場のあわただしいさもあったが、菅江真澄はひたすら先を急ぐかのように通り過ぎ、まもなく紀の国坂へとさしかかった。


「菅江真澄の道の標柱」


 けふのせば布という日記に記録が残っている。


松山村の番所のある家並みを通り過ぎて、やがて険しい山路にかかった。木々が深々と茂った山からばらばらと鳴る音がしきりに聞こえてくるのであれは何の音なのと、近くで草を刈っている少年にたずねた。鹿のなずき押しといって、雄鹿同士が額と額を押し合い、角と角をぶつけ合っている音ですという。一体どの辺りで打ち合っているのだろうと、木の間をのぞいてみると雄鹿が2匹、木立からでて奥山の方へ去っていった。


 一部省略


菅江真澄は いづれをか かづの郡の 名もしるく おじかあらそふ 秋の山影 と詠んだ


「菅江真澄の道の標柱から東方向に紀の国坂がある」


紀の国坂は筑紫森中腹から北へ突き出た女神山を上り下りする山坂である。女神山の断崖の裾は直接米代川へ落ちこみ、その岸は人ひとりようよう通る位狭い足場しかなく、旅人や馬はつづら折りの岨道(そばみち)越えなければならなかった。


「紀の国坂入り口」


菅江真澄は紀の国坂を通り神田に一泊し翌日渡し舟で錦木塚を訪れた。


「紀の国坂」


ちなみに紀の国坂が廃道になったのは明治16年に女神下の岩壁がようやく開削され車の通じるようになってしばらくのことであった。


2020年の秋に実際に紀の国坂を歩こうとしたが草木が茂っており進むのが困難であるため引き返した。近いうちにまた歩いてみたと思う。




参考文献:菅江真澄と鹿角