菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(湯沢②)

天明4年1月4日、菅江真澄は湯沢市柳田から湯沢市町中へ移動し、そこで歌を詠んだ。



たのしさよ千代もかはらずくみかはす湯沢の里の


酒を飲まないならこの湯澤についての歌を詠みなさい。さもないとすぐ飲ませますよ。


現在、湯沢市役所のほぼ向いの力水公園には真澄のこの歌を刻んだ歌碑が建てられている。


湯沢城址の入口付近にある湧水は力水と呼ばれている。



 湯沢城主、佐竹南家の御用水で「からだに力がつく水だ」と特に殿様が愛用されたと言われる。昭和60年3月に、日本の名水百選に選定。



ここで菅江真澄が訪れた「湯澤」の存在を考えれば、こんにちの湯沢市の中心部、つまり湯沢市役所周辺の一帯を指すと考えていいだろう。


参考文献:秋田のかりねを行く
写真提供:つきのわさん

菅江真澄ゆかりの地(湯沢①)

天明4年、菅江真澄が柳田から湯沢を訪れた際に、湯沢は昔、山畑かた湯が出たから名付けられた由来も書き留めている。今日の湯沢には基幹産業として農業、酒造業、曲げ木工業などがみられる。これらもまた長い歴史をえて現在に伝わるもので、菅江真澄が江戸時代に記録したのは大事な跡付けともされる。


 菅江真澄は犬自慢をしている様子を記した。これは小正月行事の「犬っこ祭り」と関係があるかもしれない。また、子供たちにも関心を示し。「はこぞり」で雪遊びしている様子を記した。


「秋田犬」


 江戸時代に庶民の生活を記録したものは少ない。その中で旅日記「秋田のかりね」は我々の今の生活にも脈々と続いている雪国の伝統というものを考えさせてくれるようだ。


 雪国の冬ごもりを実体験し、様々な工夫を凝らした雪の中での暮らしを興味深く記した菅江真澄はつぎのような思いを述べてこの日記の結びとしている。



「秋田の地方であるので、この歌がことさら興味深く思われる。鶏もゆく年を惜しむであろう、声のかぎりに泣くのが聞こえた。故郷を思うとすでに二百里あまりを離れ、旅に出てから2年目の新年を迎えるのである」


参考文献:秋田のかりねを行く

菅江真澄ゆかりの地(西馬音内)

 天明4年、田茂沢(たむろさわ)に入った菅江真澄は刑罰の柱を見た。この盗人を懲らしめる刑罰の柱が印象にあるのか、次に西馬音内で菅江真澄が目にして記したのは鮭の頭を盗んだ人であった。



 西馬音内ではまっさきに市をみた。菅江真澄が見たものはこの市で盗人と女主人とのやり取りであった。交わされる言葉に菅江真澄は大いに興味をしめて諍い(いさかい)言葉には古い言葉を聞きとることができて趣があると感じたのである。だが現在はその言葉をほとんど聞くことはない。


 西馬音内は鎌倉時代の地頭小野寺氏が西馬音内を支配して以来次第に発展した町だといわれる。町の中は正応3年(1190)に沙門源親が勧請したという御嶽神社や西馬音内氏の菩提寺であった西蔵寺がある。西馬音内川にかけられる2万石橋は本荘亀田両藩主が参勤交代で渡ったことから名付けられたといいこの道筋は本荘街道という。



冬に訪れた菅江真澄は見ることができなかったが、西馬音内盆踊りは有名である。その始まりは正応年間(1288~1293)ともいわれ、豊年踊り、または旧盆に行われた亡者(もうじゃ)祭りに由来するという。端縫い(はぬい)の着物にひこさ頭巾姿がかがり火に映え、緩やかで流れるよう舞われる優雅な盆踊りである。



 菅江真澄は西馬音内で滞在した家はわかっていない。日記から板葺きの屋根が朽ちて雨漏りするほどの家であったらしいと記されている。



 日記の記述から菅江真澄は民家での生活での観察や西馬音内地方の方言などを通して、独特な文化を感じとろうといたと思われる。


参考文献:秋田のかりねを行く
写真提供:つきのわさん