菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(土深井①)

南部藩土深井は藩境の村であった。土深井駅前のバス停付近に菅江真澄の標柱と南部藩・秋田藩境の標柱が設置されている。その付近は現在、大館市と鹿角市の境界となっている。


「土深井」


天明5年(1785)8月26日、秋田領沢尻の宿を立ち、この村に入る菅江真澄にとって一昨年旅に出てから初めての南部領であった。そののちに北海道へ渡るまでの3年間、菅江真澄はみちのく岩手の旅に明け暮れることとなる。

「土深井にある菅江真澄の標柱と南部・秋田藩境の標柱」


初めて南部藩入りした記念すべき日の光景が「けふのせば布」という日記にこのように記した。


「いづこにかさして行くらん山たかみあさぬる雲消るかりがね」と詠んだ昔の人の心まで思い出され、しみじみとしたものを感じながら行くと、また村雨が降ってきたので濡れながら歩いてゆくとみちのおくの南部藩鹿角郡土深井という村里に出た。この里を通りぬけ村はずれを左のほうへでていくとやがて松山村である。


「土深井にある菅江真澄の標柱と南部・秋田藩境の標柱」


鹿角領へ入る4日前まで菅江真澄は悲惨な飢饉地帯の津軽領にいた。秋田領大館近くまでその惨状が続いていたことを「外が浜風」に記録した。しかし、南部領に入ってからの日記「けふのせば布」ではその雰囲気は全く違っている。陰鬱さ消え、これからの南部藩の旅への期待に膨らむ明るさが出てきたと思われる。



参考文献:菅江真澄の鹿角の旅

菅江真澄ゆかりの地(院内)

天明4年(1795年)4月14日、菅江真澄は柳田村を出発し、小野小町の旧跡と横堀を経由し院内に到着した。そして桂川で和歌を詠みそこで一泊した。



翌日には院内銀山を訪れ、町や鉱山を見学して2首の和歌を詠み、院内に下った。


和歌の名人といわれた院内城代大山氏の葬式を見てさらに和歌を詠み、その日に柳田村へと戻った。


銀山町で「あさつゆを はらえば袖に玉とちる 光ことなる白銀の山」


大山氏の葬式を見て「いや高きその名は四方の橘のちりし軒端を思いこそあれ」


 院内銀山は1606年(慶長11年)に村山宗兵衛らにより発見され、金及び銀を産出し、江戸時代を通じて日本最大の銀山であった。
久保田藩(秋田藩)によって管理され、久保田藩の財政を支える重要な鉱山であった。なぜ旅人である菅江真澄が院内銀山に立ち入ることができたのかはわからない。


「院内銀山 御幸坑」


 湯沢市院内は藩境の地として院内関所が置かれた。主として浪人者の取締りと院内銀山の警備が重要な役割であった。江戸時代後期には最大4千戸、1万5千人の人口を擁し栄え、久保田城の城下町を凌ぐほどの隆盛を築き上げた。


参考文献:秋田県の頑張る農山漁村集落応援
写真提供:つきのわさん

菅江真澄ゆかりの地(岩崎)

天明5年1月10日、菅江真澄は湯沢市成沢から湯沢市岩崎へ移動した。


岩崎というところに行こうと、鳴澤という村の端に、雪を分けて流れる水があれば、
きのふけふ 山路は春に なる澤の 水こそみつれ 四方の長閑さ


「湯沢市成沢」


 やがて岩崎に到って、石川氏家に泊る。今日は初庚申の日だといって、火焚き屋(台所)の梁に“男結び”といって、縄でひとところを結んでいる。この一年、家に盗人が入らないためのまじないだという。


 また、天明5年3月に菅江真澄は岩崎城跡に立ち寄ったことが記録に残っている。

「千年公園」


 皆瀬川下流に位置し、戦国時代小野寺氏家臣の岩崎氏の居城であった。1595年、山形城主最上義光の家臣により、落城した。現在は千年公園として整備された。神社や鹿島様があり、周りを緑に囲まれた公園で見晴らしが良い。

「千年公園からの景色」


 岩崎地区三町内に数百年前から伝えられている高さ4mほどのわら人形があり、鹿島様と呼ばれ、三体祭られている。

「鹿島様」


 古来鹿島様は、邪悪なもの、悪霊、疾病などを退散せしめる神通力を持っていると信仰され、村の入り口に置かれた。現在も春秋2回衣替え(鹿島まつり)をし、家内安全、豊作を願い、祭りが行われている。


 岩崎に来たからには菅江真澄も当然、記録を残したと思うが、記録は残っていない。
 秋田の旅で多くの人形道祖神を描いた菅江真澄だが、なぜ岩崎の鹿島様についての記録がないのかは不明だ。


参考文献:菅江真澄全集