菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(八木山)

 天明4年10月、笹子川(じねごかわ)にかけられた橋を人の助けをかりながら、かろうじて渡った菅江真澄はここから山越えをして雄勝郡へ抜ける八木山越えの道を選んだ。



 この山越えについて菅江真澄は
 「木樵りにたまに出会うほかは通るものいない山道を雪に難渋しながら進んだ」
 と記録した。



この山境にはかつての生活道路や草刈りの道を含めいくつかの山越えの道が知られているものの、いずれも廃道となっている。



 八木山越えした菅江真澄は田茂沢(羽後町)へと進んだ。


参考文献:秋田のかりねを行く
写真提供:つきのわさん

菅江真澄ゆかりの地(伏見)

天明4年10月6日に矢島を発った菅江真澄は矢島街道を南へ下り伏見に至る。


伏見では前日から雨で子吉川の水かさが増し、向こうの岸に渡れない。7日は舟は出ず、みぞれが雪に変わる天気となり8日は家の軒の高さまで積もった。9日の日記には屋根の上から落ちる雪がまるで地震のように振動することに驚いたと記した。



この時期に珍しく大雪となり北国の山里の秋は一夜のうちに真冬に変わった。雪が降らない三河で生まれた菅江真澄はここで初めて北国の雪を実感しただろう。


10月10日にようやく渡し舟で子吉川を渡ることができた。


現在の由利本荘市鳥海町の伏見橋付近に藩政時代の渡し場があったとされ、地元では「赤渋の渡し」と呼ばれていた。


ちなみに川止めにあっている間、どこで菅江真澄が宿を取ったかはわかっていない。


参考文献:秋田のかりねを行く(秋田県立博物館)
写真提供:つきのわさん

菅江真澄ゆかりの地(矢島)

 天明4年10月2日、菅江真澄は矢島の城下町に宿を取った。


 矢島は平安時代のはじめに鳥海山の登山口として修験山伏がひらいたといわれ、菅江真澄が来たころは、矢島藩1万石の城下町として栄えていた。



 菅江真澄は矢島で3泊しハタハタをはじめ様々な魚を売る市を見ていた。


ハタハタといえば、八峰町や男鹿市が有名だが、由利地方の沿岸部でも江戸時代から盛んに漁が行われていた。


菅江真澄は北の海でしか取れないハタハタにかなり興味を持っていたようだ。矢島でハタハタを見てから17年後の日記、「雪の道奥雪の出羽路」で八峰町八森のハタハタ漁を描きさらに詳しく記した。

ちなみに矢島では菅江真澄がどこに宿を取ったかはわかっていない。また、同じ宿に泊まった商人から歌枕で有名な奈曽の白橋の話を聞いて、その場所を知らずに通り過ぎてしまったことを悔やんでいる。


参考文献:秋田のかりねを行く(秋田県立博物館)
写真提供:つきのわさん