菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(吉沢)

 天明4年10月、菅江真澄は小菅野から下って再び子吉川を渡り、吉沢に入った。



「吉沢歩道橋のたもとにある標柱」


菅江真澄は吉沢でも和歌を一首詠んでいる。


行かひはまさ木のかつらくりかへし引手あまたにわたす舟人(真澄31歳)




小板戸から川辺を通り、矢島へ向かう道は子吉川の流れの変化などにより変遷があったようだが、菅江真澄は前杉を下っていったと記した。


「子吉川」


吉沢には畑中喜右衛門の碑がある。


菅江真澄は矢島へ向かった。


参考文献:秋田のかりねを行く(秋田県立博物館)
写真提供:つきのわさん

菅江真澄ゆかりの地(小町塚)

 平安時代の歌人、小野小町に想いを寄せた深草少将が小町へ贈った芍薬を植えた場所とされ、『芍薬塚』と呼ばれた。



 小野小町生誕の地と伝えられる里の人々が、小町が愛した芍薬をこの場所に植え、いにしえの小町を偲んでいたことから芍薬塚と呼ばれていたが、小町を奉る小町堂が建立されたころから小町塚と言われるようになった。


近年、老朽化のため現在のお堂に建て替えられた。


小町堂は朱塗りで、平等院鳳凰堂を模して造られた鮮やかな建物となっており、毎年、芍薬の花が咲き誇る6月に小町を偲び、小町まつりが行われている。


 江戸時代の紀行家、菅江真澄は小町塚を訪れ、当時の小野村に伝わる小野小町の郷土伝承を描いた。小野小町に強い関心を持っていただろう。



小町堂の裏には菅江真澄の案内板や来訪四百周年記念の標柱が設置されている。


 花の色は、うつりにけりな いたづらに


 わが身世にふる ながめせしまに


 (小野小町)

参考文献:秋田のかりねを行く(秋田県立博物館)
写真提供:つきのわさん

菅江真澄ゆかりの地(柳田)

天明4年(1784年)11月、菅江真澄は西馬音内に滞在した後、雄物川の貝沢の渡しを通って現在の湯沢市柳田へ到着した。



現在の柳田は60軒余りの集落で、湯沢市の西部に位置し、雄物川を挟んで羽後町貝沢集落と向き合っている。


菅江真澄は湯沢市と羽後町の境界である雄物川の貝沢の渡しを通って湯沢に入った。現在では国道398号線上に柳田橋が架けられ、昔の雰囲気を感じる暇もなく湯沢市に入ってしまう。


 雄物川を渡ると自然堤防上に柳田城跡がある。中世、柳田城主柳田治兵衛(じへい)が治めたところ近世はこの旧城郭内に移住して村を形成したところであった。 



柳田では草彅氏と出会い、初めて雪国の正月を過ごした。


(10月19日、雄物川を渡って柳田村という笹葺き屋根の家ばかり多く並んだところに入った。草彅という情け深い老人に宿を頼むと[雪が消えるまでここで過ごしなさい]と懇ろ(ねんご)に言ってくれた。これを心の頼りとして今日は暮れた。)


 草彅氏はこの季節は先に進むのが大変だろうから初対面の菅江真澄に雪が消えるまでゆっくり滞在するのを勧めたようだ。



その間、雪国の生活を観察しながら雪垣、雪袴、蓑帽子、かんじき、箱ぞり、はきぞりなどを描いた。その他、菅江真澄は雪が多く降り積もったとき、雪降ろしをしている様子も描いた。


「秋田のかりね」は正月までの日記となっており、それ以降は「小野のふるさと」に記録が残っている。


 三河から北国への旅に出て、最初に迎えた厳しい冬。そこで出会った思いがけない親切は、菅江真澄を力づけるとともに出羽秋田への好ましい印象を刻んだのかもしれない。


参考文献:秋田のかりねを行く(秋田県立博物館)
     菅江真澄と秋田(無明舎出版)