菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(海士剥)

 天明4年、菅江真澄は象潟で島めぐりを終えた後、金浦町の飛集落を訪れ、飛の地名の由来とそこの塩竈神社に興味を覚えて由来を記した。


 仁賀保町にある芹田に入ると白雪川を渡し舟でで越えた菅江真澄は日本海沿岸に伸びる北国街道さらに北上し由利地方を代表する二万石の城下町・本荘を目指した。



 菅江真澄は由利本荘市西目にある海士剥(あまはぎ)に通過した時、ここを流れる西目川について記録を残した。


  河に橋がかかっている。水が少なく、砂が多い河だが、これを渡ろうとして足を入れれば、沼田のように深く入って、多くの旅人が命を失ったようだ。
 もし、渡ろうとするなら、土地の詳しい人を案内にたてるべしと言われたそうだ。


現在の西目川は土砂が堆積して浅くなり危険だった当時の面影は感じられない。


ここは東本願寺22世の現如上人(げんにょしょうにん)が説法をした場所といわれ、そのことを記念した石碑も見ることができる。


海士剥(あまはぎ)を通過した菅江真澄は塩を作る光景を見ている。この付近は昔から海水を汲んで塩を作っていた。



砂浜での塩田での作業風景や土窯で煮つめている風景を眺めながら暮れつつある道を急いだろう。


参考文献:秋田のかりねを行く(秋田県立博物館)

菅江真澄ゆかりの地(蚶満寺)

 蚶満寺(かんまん)は仁寿3年(西暦853年)に慈覚大師により、天台宗の寺院として開山されたと伝わる。のちに真言宗を経て、江戸時代に曹洞宗へ改宗し現在へ至る。


 象潟は蚶(きさ)という貝が多い所から付いた地名で干(蚶)満寺もそれにちなむものと推測できる。 


 1689(元禄2)年に『奥の細道』途中の松尾芭蕉が、1784(天明4)年には菅江真澄が立ち寄ったことで知られている。



境内は松尾芭蕉西施の像や石碑や植物があり庭園となっている。


 松尾芭蕉は1689(元禄2)年にここを訪れ「奥の細道」に記録が残り最北の地として知られている。


 象潟や雨に西施がねぶの花 の芭蕉句碑も立っている。


 菅江真澄親鸞聖人の腰掛け石について記録を残した。


 肥前島原の西方寺にあった親鸞が腰掛けたとされる石である。


 松しまやおしま塩かま見つゝきて 爰(ここ)にあはれを象潟のうら


 
 また、1257年に鎌倉幕府5代執権北条時頼が訪れ、寺名を蚶満寺とした。


北条時頼は、象潟の景色のすばらしさについて、惜しまれぬ命も今は惜しきかな また象潟を見んと思へばと歌っている。


また、西行法師が歌ったとされる桜の木がある。


きさかたの桜は浪にうづもれて 花の上こぐあまのつり舟


舟つなぎの石があり、多くの文人がこの辺りを回遊し、ここに船を止めて上陸したと思われる。



『奥の細道』当時の象潟は、松島のように九十九島を浮かべる風光明媚な景勝地であった。


 境内からは様々な島々を眺めることができる。ここが海に囲まれた島だったということを想像しながら散策した。


 菅江真澄は名勝象潟の風景は歌枕の知識から知っていて、ぜひとも見物したい思いあった考えられる。


 なみ遠くうかれてこゝにきさかたや かつ袖ぬるゝ夕ぐれの空  秋田のかりね


参考文献:秋田のかりねを行く(秋田県立博物館)

菅江真澄ゆかりの地(鳥海山)

 象潟での二日目の旅は雨風が止まなかったものの、宿でじっとしてもいられず、磯部を歩き回った。三日目には中橋から船に乗り潟巡りに出かけた。


 菅江真澄は船で島々の合間を縫って鳥海山を眺めていた。その時に詠んだ歌がある。


 「大平からあおいだ鳥海山は駿河の田子の浦からみた富士山のようで見事であった」


 

 
田子の浦は静岡県にある駿河湾西岸の名称でそこから見事な富士山が見ることができる。


「田子の浦から富士山」
 
菅江真澄は天明2年に駿河地方に出かけており、その時に富士山を見たと思われる。


にかほ市から見た鳥海山


参考文献:秋田のかりねを行く(秋田県立博物館)
     菅江真澄と秋田(無明舎出版)