菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(姨捨)

菅江真澄が本洗馬(塩尻市)を拠点としていた天明3年の日記は「伊那の中路」だが、更級にある姨捨山の月見に出かけた8日間の記録は「わがこころ」と知られている。


「姨捨駅から見る長野盆地」


姨捨は古くから月見の名所として知られた場所である。
長野県には標高1252mの冠着山(かむりきやま)あるが、別名で姨捨山と呼ばれている。


「鏡山と棚田」


月見の名所となっている長楽寺にある姨石からの月を「姨捨山の月見」としていた。


長楽寺の境内には多くの歌碑や句碑がある。


中でも門脇の松尾芭蕉の句「俤や姥一人なく月の友」を刻んだおもかげ塚が著名である。なお、芭蕉が姨捨山の月を眺めに木曽路から当地を訪れた更科紀行でこの句を詠んだ。


こちらが長楽寺の本堂。


本堂の内部の様子。いつ頃、建築されたかははっきりわかっていない。



こちらが観音堂。ここからでも十分月見が楽しめる。


 境内にある「姨石(姨岩)」は、高さ約15 m、幅約25 m、奥行約25 mあり、頂上からは長野盆地を一望でき、月の眺めも別格である。


菅江真澄は姨石から月見をしている様子を描いていた。


図絵には千曲川を挟んだ向かいの鏡台山から昇る月を姨石の上のたくさんの人たちが眺める様子を描いている。姥石の下には[田毎の月]として有名な棚田が並んでいる。



菅江真澄はどんな想いで月を眺めていたのだろうか。


 姨捨(田毎の月)は国の名勝に指定されている。棚田の向こう側には長野盆地が広がり、見事な景観であった。


参考文献:菅江真澄、記憶のかたち(秋田県立博物館)

菅江真澄ゆかりの地(釜井庵)

 本洗馬歴史の里資料館は江戸時代の紀行家、菅江真澄や医学者で結核の治療や予防に貢献した熊谷台蔵博士などについての展示がある。


 

 本洗馬歴史の里の説明板。本洗馬の歴史を振り返るうえで菅江真澄は欠かせない存在だと感じた。

 入館後、職員の方が菅江真澄について詳しく説明してくれた。


 菅江真澄(当時は白井秀雄)が残した長野県内の日記・記録が多く残されている。


この地図を見ても菅江真澄は長野県内の様々な地域を旅したことがわかる。


熊谷台蔵博士は結核や糖尿病の予防や治療に大きく貢献した偉人だ。


釜井庵は本洗馬歴史の里のすぐ近くにある。



こちらが釜井庵で菅江真澄が本洗馬に滞在中の宿泊場所であった。現在の建物は宝暦年間に再建されたもので幕末には寺子屋として使われた。


釜井庵の軒にかざられていた七夕人形の絵が有名で「いなのなかみち」という日記で描かれている。


釜井庵の内部に入ると菅江真澄の人形があった。


 ここに長く滞在できたのは洞月上人の計らいがあったと思う。



実際に釜井庵を見て、本洗馬地域の歴史を語るうえで欠かせない場所だと感じた。



 菅江真澄はこの地域の文化の発展に大きく貢献したと思う。



参考文献:真澄紀行(秋田県立博物館)

菅江真澄ゆかりの地(長興寺)

 菅江真澄が北への旅に出て約1年間は長野県塩尻市にある洗馬を拠点としていた。


 今回は塩尻市内にある長興寺を行ってみた。菅江真澄は長興寺の住職である洞月上人と交流していた。



門の横には柳田国男と折口信夫の歌碑がある。


歌碑の解説がその横の石に刻み込まれている。


柳田国男の短歌は昭和5年にこの寺で開かれた「民間伝承大意」の講演の際、詠んだ。


洗馬山のかまへの庵の雨の日の むかし話と我もなりなむ


また菅江真澄(白井秀雄)と洞月上人の石碑があり歌が刻み込まれている。



名も志らぬ鳥の鳴音を友として浮世はなるゝ奥の山寺  洞月


夜とゝも行ふ法のともし火やたゝぬひひかりをみねの古寺 秀雄



菅江真澄が洗馬の地に来たのは洞月上人を訪れたためで、釜井庵に滞在して交流を深めていた。北へ向かって旅立つ菅江真澄に洞月上人は「和歌秘伝書」を授けた。これは和歌を詠むうえでの心得や技法などについてまとめられた巻物である。この巻物を授けるということは旅に生きて歌を詠み続けるという菅江真澄について洞月上人が共感したと思われる。


 石段を上がり寺の境内に行くと地蔵様がお迎え。



 また境内には市名勝の庭園がある。



 見事な庭園で心和む場所であった。


参考文献:真澄紀行(秋田県立博物館)