菅江真澄の道

江戸時代後期の紀行家、菅江真澄が旅したゆかりの地を巡っていく!

菅江真澄ゆかりの地(豊橋)

 豊橋市には近世、吉田という地名であった。江戸時代には吉田城の城下町として栄え、東海道の宿場町として、吉田宿が設置された。


(吉田宿本陣跡)


 菅江真澄はこの時期の吉田で植田義方から国学を学んでいた。国学は日本の古代の文献を考証し、そこから日本古代の精神を求めていく学問である。万葉集の分析からこれを実践した賀茂真淵は植田義方と親戚関係にある。植田義方を通して賀茂真淵の国学は菅江真澄に大きな影響を与えた。


(吉田城)


 菅江真澄が旅に出た後でも植田義方に品物を送ったり、文通をしたことがわかっている(寛政3年、津軽の深浦から、享和元年6月にロシアの銀貨を送った)


参考文献:真澄紀行(秋田県立博物館)

菅江真澄ゆかりの地(岡崎)

 岡崎市にある伝馬町通りには菅江真澄が交流していた国分家があった。ここでは市隠亭(しいんてい)という国分家の書斎に集う人々と和歌や漢字を学んでいた。


(伝馬通り)


 ※市隠亭は国分伯機が自宅脇に設けた書斎


(市隠亭についての石像)


国分伯機の長男の妻は植田義方の実妹であり、その関係で菅江真澄も国分家に出入りできたと思われる。
 

   

(市隠亭の案内板)


 菅江真澄は若い頃、岡崎を拠点にしていたのは間違いない。その後、名古屋で暮らしたこともあったといわれている。


(岡崎市内の桜)


参考文献:真澄紀行(秋田県立博物館)
    菅江真澄読本(無明舎出版)

菅江真澄とは?

 


 1754年(宝暦4年)に三河国(愛知県東部)に生まれる。「菅江真澄」は秋田で暮らすようになってからの姓名である。それ以前は白井英二、秀超、秀雄と名乗っていた。真澄先生は30歳の時に長野へ旅立ち、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道を巡り、48歳の時、秋田入りし、その後28年間を秋田で過ごし、76歳で亡くなった。



 ちなみに菅江真澄はどこで生まれ育ったか今でもわかっていない。出身地を教えたくなかったり、名前を変えたり、自分のことを語ろうとはしなかったからだ。旅をした理由もわかっていなくて謎多き人物だ。出身地は豊橋市か岡崎市が有力となっている。